大人になったって、どこにもここにもイジメがある

ある人なり会社なり個人がヘマをする。
それがネットなりメディアでもいいし、もう少し小規模な仲間内でもいい、とにかく、多くの目に晒されるとする。
そして観客が、あーだこーだと言う。
「これはひどいね」「だねだね」「分かってないんだろうね」「この程度なんだよね」「そういうことでしょう」
そして、あーだこーだ言い合ってる人達は、自分達が言い合うことにまったく問題ないと信じて疑わない。

これはイジメと同じ構図というか本質的にはイジメそのものなんだ。

僕だって気がつけばたまにそういうことに参加しているし、
ほとんどの人がそういうことをしている。

分かりやすく言えば、飲み会で、ある人を叩くのはとても盛り上がる。
「あの人ちょっとアレよね」と噂話をすると「そうそうそう」と盛り上がる。

イジメの本質は、特定の生贄を作ることで、イジメる側の結束を高めることにある。
本当のところ、イジメる側は、生贄のほうには興味がない。
興味があるのはイジメている人同士の横のつながりのほうだ。
だから生贄はどこまでも人として扱われない。
生贄自体には誰も興味がないからだ。

イジメる側は、なぜ横のつながりの強化のために生贄を作るか。
それは孤立を避けることで生存率を上げるという、動物的な社会性の本能に基づく。
つまりイジメの本質はDNAに組み込まれていることなんだ。
だから、誰でもイジメる側になっている。
いや、人間であれば、イジメる側になっていないことはありえない。

メディアとインターネットやら情報通信が発達すればするほど、加速度的にイジメの構図が増す。
1人を10人が叩くイジメが100箇所で起きていた時代から、
1人を100人が叩くイジメが10箇所で起きる時代になってきている。

生き残る方法は二つ。
一つ目は、生贄になっても特に問題にしないことだ。要するに究極の無神経と不感症。
二つ目は、石になり、意識を消し、存在を消すことだ。
イジメのすべての始まりは生贄として晒されることにある。
存在を認知されなければ晒されることはない。

スポットライトが当たることのリスクと、
スポットライトがあたらないことの価値が、
これほどに高まっている時代はない。

スポットライトに飛び込む、逃げるか、このバランスの難しさは、たまらなく面白い。

今は愚直に製品を作ることだけをしないといけない。
ニュースもtwitterもfacebookも本当に付き合い方が難しい。
流れつづける情報に思考を奪われて、いま本当に自分がしなければならないことを見失う。
それは、都心に住んでいるときに、街を歩いたり仕事をしたり同僚と飲んだだけでとにかくあらゆる情報が飛び込んできて、「本当にいま自分はなにをすべきか」という、雑音が無いたっぷりの時間がなければできない思考が妨げられて、知らず知らずに自分を見失ったのと、同じだ。

とどのつまりは、自分との勝負にある。
情報に踊らされそうになる自分自身に気づき、ブレーキをかけ、
自分が本当にやりたいことにシンプルに答える。
これができないと、次に進めないなぁ。。。

坂の上の雲

最近、NHKオンデマンドで坂の上の雲を見てる。
子供たちが寝静まってから、起さないようにヘッドフォンを付けて毎晩1話ずつ。

ドラマだと割り切ってみているけれど、やっぱり明治の時代背景に興味が出る。作中では明治はオプティミズムだと言っている。そしてフロンティアがあることが幸運であったような事を言う。ぜひ死んだ明治のエリートたちに聞いてみたいところだ。

今の時代は目に見えるフロンティアを失って久しい。明治の20代の庶民は貧困に喘ぐ日常の中に突如降ってきた国家というものに熱中した。一方で、自分の20代を振り返れば、末端のサラリーマンとしての仕事と、携帯電話とネットで半ば強制的につなげられたコミュニケーション手段のコントラストに翻弄されていた。いつの時代も若者は熱中できるものを求めている。ただ、今は分かりやすい物がないから、周辺の人間関係にエネルギーが費やされている。一見、国家だとか主義だとか、そういうものについては一番遠い時代にいるように見える。でも僕は、今もし分かりやすい敵が現れたとしたら、一気に火が付くのではないかと思う。しかもそれは、坂の上の雲のような、明治のオプティミズムとはかけ離れた、何か途方もない黒いエネルギーを原動力としたうねりになるような気がしている。

なにも変わらない日常の中で溜まったエネルギーが、行く先を失っている。
それは国家が大衆化する前の、民衆の心理そのものではないか。

マンション買うにあたってあれこれ考えたこと

お金の話。

夏にマンションに引っ越しする予定なんだけど、このタイミングでマンションを買うのはだいぶ勇気が要った。

つくばエクスプレス沿線の地価は茨城県の中でも特異中の特異で、首都圏のマネーフローが流れ込む数少ない土地になってる。地方から東京への転出の時代、地方の住宅需要が減る中で、つくば駅近辺は例外的に転入状態とあり、とにかく住宅供給がすごい。買う側としてはモロ高値掴みのタイミングだ。実際にしばらく住む予定なので実需ということで飲んだけど、(円の価値が変わらないとしたときの)投資として買うには損だと思う。

それでも家買う後押しになったのは金利。

もちろん僕はチキン野郎なので固定にした。変動が怖いというよりも、変動にすると、上で言ったマンション自体の資産価値の変動に加えて、円のインフレリスクを受けるのが怖い。だって、黒田さんインタゲするって明言してるし。

変動でローン組むというのは、「我が家は日本経済と家計を連動させ、運命を共にすることを誓います」という宣言と同じだ。もちろん経済というか円がこのまま安定すると読むなら変動のほうがいい。でも個人的には、これから数年(五輪まで?)いまのバブルが続いて、何かの拍子に崩壊するという悲観論で読んでる。この時、崩壊の仕方がポイントで、偉い人たちがうまくお尻を拭けず、長期金利が上昇するようなことがあれば最悪。その時変動で組んでればモロに煽られるし、円は安くなるだろうし、キャッシュじゃなくて不動産として資産をもってたほうが結果的によかった、ぐらいになるリスクすらある。読みが外れて、円がソフトランディングしてくれれば、日本としては大変結構なことだけど。

金策は誰に相談したわけでもなく、一人で腹をくくった。どうせ起業した時点で博打うったようなモンなので、マンション買う事自体は特に悩まなかった。銀行の人に相談したところでポジショントークされるだけ。本やらメディアを読み漁っても結局はポジショントーク。所詮、金融商品なんて世界で一番マネーをもっているやつら同士の博打の打ち合いに伸るか反るかであって、一市民にとっては50%-50%の域を出ないと思っている。

またまた進撃の巨人からの引用だけど

「勝てなきゃ死ぬ 勝てば生きる 戦わなければ 勝てない」

ってやつについて、

戦えることの幸せ、ってのがあるのかなと思ったりしている。

資本主義なんて結局ゴールドマン・サックスに誰が金を出すかのババ抜き

※元ネタが分かる人向けの記事です、すみません

自分のfacebookで最近騒がれてるネタがあって、それはとある中小企業が企画したハードウェアの製造が遅れていて、予約した数千人が発売を待たされ、企業の社長がそれについての謝罪に加えて内情をブログで愚痴るというもの。まったく知らない人だけど、それなりに同業だからウォッチしている。事は簡単で、ハードウェア製造の経験がないのに中国の工場にいろいろポーンと任せたらまったく想定外のことが連発して遅れています、という内容。

で、その経験不足からの失敗自体については、人間だし不可避リスクだとして、ブログ記事読んでにじみ出てるのは、その社長さん、ほんと、いかにも良い人そうなんだわ。。。悪い意味で。どういう判断ミスをして、そして今それをどう思っているのかを、事細かに書いちゃってて、それはたぶん予約したお客さんに事情を説明して納得してもらおうと思って「すみません、すみません」って書いたんだと思うけど、自分が従業員だったらゾッとする。
そもそも誰得な記事なんだけど、それ以上に、そんなすみませんすみません姿勢を公開してれば「おーカモだ、カモだ」と、さらにハゲタカたちが寄ってくることを分かってない。そもそも、そういう姿勢が見えたから中国の工場がタカってきたんだと思うけど…。そのうちに「いやぁ、大変ですなぁ。まあハードなんてこんなもんですよねぇ。僕もメーカーにいたころに10回ぐらいは死にそうになってますから。こんな感じで火のついたプロジェクトをリカバーするには、こうこうこうするの鉄板なんだと思うんですけど、ちょっと手伝いましょうか?」とかいう一言から、いつのまにか会社ごと乗っ取られてましたテヘ、みたいなストーリーに発展するとか、それが会社経営のガチで怖いところです。

あとブログの中で「こんなに苦労して思ったのは、Appleのすごさだ、彼らはきちんとハードを作ってる」的っていう発言にしても、SCMの管理が原因だと思い込んでいることが露呈されてて、ようするに良い人でカモられてる事がまるで自覚がない。最後「がんばります」みたいなことでブログが締められていて、それが本気だとしたら、まだ戦争やってるつもりでヤバい。もうとうに撤退戦とか敗戦処理を考え終わって関係各所に根回し初めてるぐらいじゃないといかんのに。

まぁ、ちゃんと全部演技で、昨今のハードウェア起業ブームに向けた「実録・俺はこれでHW失敗した」本をシコシコと執筆しています、っていうぐらいだとイケてるんだけど。

どちみち経営やってると自分もその社長も目くそ鼻くそで、僕も1億ぐらい騙されて崩壊する可能性も十分あるし、資本主義なんて結局ゴールドマン・サックスに誰が金を出すかのババ抜きなので、一日一日、仏壇に手を合わせながらご先祖様に感謝しながら生きることが重要なんだなと思う今日この頃です。

格差とか社会保障とか

最近考えているような内容をだらだらーと書いてみます。 この年になると、格差だとか社会保障だとか、国家運営のための基本的な理念や考え方にも興味が出てくる。 俺たち、なにしてんだろう?とか、なんで働かなきゃなんねーの?、なん … “格差とか社会保障とか” の続きを読む

最近考えているような内容をだらだらーと書いてみます。

この年になると、格差だとか社会保障だとか、国家運営のための基本的な理念や考え方にも興味が出てくる。

俺たち、なにしてんだろう?とか、なんで働かなきゃなんねーの?、なんで税金払わなきゃなんねーの、なんでこの金額なの、なんで国会は揉めてるの、とかそういう疑問についてぼけーっと知っていくと、最後に行き着くのはチームとして生き残るという話に帰着する。

むかしむかし。まだ文明がなかったころから、同じだ。外部に敵がいて、自分一人じゃ生き残るにはリスクが高い。だから群れて行動しよう。群れるだけじゃ効率的じゃない。リーダーを決めて、運動神経のわるいやつはそれなりの適材適所の役割を与えて、全体としてリスクを吸収するとさらに効率がいい。だんだん組織は強くなる。

が、外敵に対して余裕ができてくると(つまり、平和が長く続くと)内部では必ず内乱が発生する。それまで外敵から逃れるという統一の目標に目を向けていたのが、その必要がなくなって、こんどは内部の不満にたいして行動のエネルギーを使うようになる。いまの政治や産業の腐敗も、もちろんこの国が世界一豊かだったことの代償に違いない。

そして、気づいたときには、内乱が油断を呼び、ついには外敵に対する脆弱性になっていく。そんで、さくっと食われてしまう。国で言えば、侵略されるか、もしくは傀儡国家に成り果てるか、ってところだろうか。

65年、戦争をしなかった。アメリカとの安全保障条約を根幹にして、ジャイアンに守られながら、復興を目指して成長した。成長が終わって、僕たちの世代は、ある程度のツケを払うことになった。けれども引き続き十分に平和で、危機は見えにくい。国力は減衰しつづける。ゆっくりと死んでいく感じ。ゆっくりは、こわい。もしハッとするような危機があれば必死になるだろうに、ゆっくりと駄目になっていく。気づいたときにはもう遅い。

道はもうたぶん1つしかないと思っている。国はもう個々の国民を守りきれない。全体のつじつま合わせのために国民から犠牲が出てくる。だから、自分で自分のことを守るしかない。

がんばる!