α6000ユーザだったわけですが、
SONY α7-II と Sonnar 35mm F2.8 を買った。
前にα6000で使っていた Sonnar 55mm は本当に綺麗なんだけど、
近くに寄れなくて普段の生活で撮りたい時に使いにくくて35mmにした。
いい感じである。
α6000ユーザだったわけですが、
SONY α7-II と Sonnar 35mm F2.8 を買った。
前にα6000で使っていた Sonnar 55mm は本当に綺麗なんだけど、
近くに寄れなくて普段の生活で撮りたい時に使いにくくて35mmにした。
いい感じである。
会社が期末なので追い込みです。
今年は勝負の年なのでとにかく走り切る。
先日かったSONY α6000とカールツァイスのF1.8 55mmのレンズが超いい。
カメラ買うと写真取るのが楽しくなるってホントね。
風立ちぬのDVDをamazonで予約してたんだけど、先日届いたのでさっそく見た。
効果音を人の声でやってるって気になってたけど確かに人の声。
でも全体的に夢みてるようなタッチで描かれてるから、SEがリアルじゃないほうが、より強調されるのかも。
内容は、宮崎駿が思うがままに作った感じ。
淡々と描かれて淡々と終わる。
こないだ北野武のアウトレイジも見たけど、達観すると、やっぱり淡々とするもんなんだな。
うちの主力機は初代Pen+パンケーキレンズなんですが、SONYのα6000が良さそうなので意を決して新調。レンズはPenで単焦点の良さを味わってたので55mm F1.8購入。SEL55F18
ひゃっほーーーう!
髪の毛の繊維が素晴らしい。
カールツァイス!!
いってきました。娘と二人でドライブ。
つくばから隅田川へ。
が、超絶渋滞。三郷から向島まで完全にドン詰まり。
普段の倍、2時間かかった。
颯爽と高速を走りたかったのに、なんとも残念なドライブに…。
渋滞中、まったく動かないので写真を撮るのも余裕。
なんとか到着。
桜は2分咲ぐらいなので人もそれほど激混みという感じではなかった。
子供連れには最適かもしれない。
出店が出てたので、おにぎりを買って、まったりと桜の下で食べた。
ゆったりと歌謡曲が流れる中、シンプルな鮭おにぎりの味に、ものすごい贅沢を感じた。
が、30分もすると、飽きたらしく、公園に連れて行けとの催促が。
そりゃまぁ子供にとっちゃ桜なんてどーでもいいわな。
七夕、今日はつくばに引っ越してから1年になる日。
妻が美容院にいっている2時間の間、娘を連れて牛久沼まで散策に出てきた。
車を運転している途中で目に入ったナビの「雲魚亭」。
牛久沼の東側、牛久の市街地から少しはなれた牛久沼の湖畔にあるらしい。
なんの予定もなかったので、特に意味もなく、行ってみることに。
たどり着くまでに不安になるような細い農道と田舎道を行くと、あった。
書いてあることには、雲魚亭は、小川芋銭(おがわうせん)という日本画家が晩年にアトリエとして使った建物らしい。
芋銭の死後、親族により牛久市に寄贈されたらしく、今は牛久市管理の観光スポット???になっている。
まったく日本画なんて知らないので、もちろん芋銭という名前もはじめて知った。
スマホのWikipediaで調べると、河童の絵が有名だとか。へえへえ。
で、雲魚亭の入口まで行ってみると、なんてことはない、平屋の古い日本住宅。
特に目立った建物ではないし、豪華な庭園があるわけでもない。
どこの田舎にもありそうな、本当に普通の古い建物。
これは・・観光スポットなのか?という感じ。
入口近くに、おばあさんが歩いている。近所のおばあさんかと思ったら、管理人らしい。
中に入っても無料だというので、いきなりだけど見学用紙に記入して、中を見ることにした。
小さい娘を連れて見学に入るのは少し考えたけど、ほかにお客さんがいるわけでもなさそうなので入ることに。
ちなみに前回の訪問は二日前の7/5に2名だけ。
今日は7/7で、僕と8ヶ月の娘の2名を記入。
中には、芋銭という画家の使った硯やら画家同士のやりとりをした封筒が、いかにも博物館風に飾ってあった。もちろん、撮影禁止。
個人的には、そういう展示品よりも、気になったのは、懐かしいガラス戸。
昔のガラスって、ゆがんでいて、歩きながらそとの景色みると、少しゆらゆら揺れたように見えるけど、まさにあれ。
いつだったかな、父の実家で見た?記憶がある。
妙に懐かしかった。
あと、電源のスイッチ。大昔の電源スイッチ。そこに書いてあったメーカ「NATIONAL」の刻印。
そしてブレーカ。古ーい漏電ブレーカー。札に書いてあったのは「東京電力株式会社」。
雲魚亭は昭和12年に建てられたらしいけど、ナショナルも東電も80年も昔の日常生活にあったんだと、改めて歴史の長さを感じた。
80年と言えば、もうその頃の経営者や従業員はほとんど他界していて、完全に別の人間の組織体なのに、80年後もその名前がしっかり残っている。
会社を経営する立場としては、いろいろな経営方針があるのだけれど、やっぱり多くの人の日常に根付いて、それが80年後も何かしらの痕跡で確認できるような、そういう事をやれたら幸せだと思う。
で、雲魚亭のほうは2,3部屋しかない小さな家なので、10分も歩いて見学終わり。
管理人のおばあさんが、8ヶ月の娘を、「かわいいねえ、かわいいねえ」とあやしてくれた。
もうひとつ印象的だったのはそのおばあさんが小川芋銭について語っていたこと。
「当時、田舎の農家なんて貧しかったんですけど、(小川芋銭は)全国を旅して絵をかいて、たまに牛久に帰ってきては、近所の農家に色々と施しをしてくださった。人間的にも、できた人だったんだと思います。」と。
いくらおばあさんと言えども、芋銭が生きていたころとは時代が違うので、実際に芋銭のことは知らないだろう。
けれど、芋銭について話をしていた時のおばあさんの話し方からは、芋銭を敬うような印象を受けた。
そりゃ市の施設の管理人さんなので、芋銭については悪く言うことなんてありえないんだろうけれど、職員としての説明とはちょっと離れた心情を察した。
もしかしたら、おばあさんは、おばあさんの親御さんの世代、つまり芋銭と同じ時代の人々から、芋銭の行いについて教えられていたのかもしれない。
芋銭のことは今朝までまったく知らなかったけど、不思議な縁で、色々と普段では考えないようなことを考えるきっかけになった。
で、帰って、いろいろ調べていると
明治28年(1895年)2月に同じ村の農家の黒須巳之助の二女「こう」と結婚しました。
こうは健康で体格もよく農事には一通りの心得があり、芋銭が何の心配もせずに絵の勉強ができるようにと夫の分まで働きながら、5人の子供を立派に育て上げました。
こうの「夫の分まで働くから」という申し出により、父は芋銭の画業を黙認するようになりました。
(中略)
円熟期に入った芋銭は農事・家事のことは妻に任せて長期の旅に出かけるようになりました。
うーん、時代だなぁ。。。
さらに調べると
芋銭研究センター!?
検定!?
死後80年の2012年。地方自治体に担ぐだけ担がれた芋銭。
研究センターやホームページ、検定まで作られて、どう考えても税金の●使い的な印象を受けるわけではございますが、その縁で知ることにもなったわけで、僕は今日から少し芋銭のことを忘れないようにしたいと思います。。。