実は、趣味で少しずつ作劇の練習をしている。シナリオライティングとか小説の類。その中で有名作品のシナリオをいろいろ分析したりしてるんだけど、シナリオの観点から有名作品を見ると、ぜんぜん違って見えて面白い。例えば、「天空の城ラピュタのシナリオは途中でマルっと入れ替わってる」という話が面白かった。
映画の序盤で、主人公であるパズーの動機が「死んだ父が見たはずのラピュタを発見したい」と明示される。なので、シナリオの王道だけで言えば「パズーが大ピンチになりつつラピュタにたどり着く物語」になるはずが、実際には映画の中盤でラピュタにたどり着いて目的が達成されてしまう。そこからはシナリオはいつのまにか「シータの物語」になる。シータについても、序盤でゴンドワの谷から怪しい連中に連れ去られた回想シーンがあるので「怪しい連中から逃れてゴンドワに帰る物語」が暗示されているので「がんばれシータ、ムスカの夢を砕いて逃げろ!」とハラハラドキドキ楽しめるようになっている。でも、中盤以降のパズーは物語的な役目を終えているので舞台装置的になっていて、出番といえばシータのサブとして「バルス」を唱える時ぐらい。主人公をクライマックスあたりでフォーカスしないってのが面白い。もしこれがハリウッド映画なら、たぶんシータが一人でムスカと対峙するような展開にはならず、パズーとムスカで殴り合いの勝負になって、最後はキスシーンでエンディング、石の力を発動させてシータとパズーは新生ラピュタ王になるはず。
でも実際にラピュタを見ていて、シナリオのギアチェンジの違和感みたいなのを全然感じない(気にさせない)のは、鬼才宮崎監督のマジックだと思う。とにかくまったく無駄がなくて魅力的なシーンだらけ、アニメーションも世界観も見ていて引き込まれる演出続きで、シナリオが圧倒されてる。なんとなく、ラピュタの「映画」の魅力を100としたとき、小説だと30ぐらい、漫画でも50ぐらいになっちゃうんじゃないかと思う。それだけラピュタはアニメーションで生きている。
特に、パズーがシータを燃える塔の上から救出するところは、宮崎映画の演出の中でも屈指のシーンだと思う。アニメーション・セリフ・音楽まで何の違和感もない一つの塊のようになって観客を引き込む。あれは小説でも漫画でも(たぶん実写でも)達成できない域なんだと思う。