牛久散策 雲魚亭、小川芋銭、ナショナル、東電 

七夕、今日はつくばに引っ越してから1年になる日。

妻が美容院にいっている2時間の間、娘を連れて牛久沼まで散策に出てきた。

車を運転している途中で目に入ったナビの「雲魚亭」。
牛久沼の東側、牛久の市街地から少しはなれた牛久沼の湖畔にあるらしい。
なんの予定もなかったので、特に意味もなく、行ってみることに。
たどり着くまでに不安になるような細い農道と田舎道を行くと、あった。

雲魚亭の入口

書いてあることには、雲魚亭は、小川芋銭(おがわうせん)という日本画家が晩年にアトリエとして使った建物らしい。
芋銭の死後、親族により牛久市に寄贈されたらしく、今は牛久市管理の観光スポット???になっている。
まったく日本画なんて知らないので、もちろん芋銭という名前もはじめて知った。
スマホのWikipediaで調べると、河童の絵が有名だとか。へえへえ。

で、雲魚亭の入口まで行ってみると、なんてことはない、平屋の古い日本住宅。

雲魚亭@牛久沼

特に目立った建物ではないし、豪華な庭園があるわけでもない。
どこの田舎にもありそうな、本当に普通の古い建物。
これは・・観光スポットなのか?という感じ。

入口近くに、おばあさんが歩いている。近所のおばあさんかと思ったら、管理人らしい。
中に入っても無料だというので、いきなりだけど見学用紙に記入して、中を見ることにした。
小さい娘を連れて見学に入るのは少し考えたけど、ほかにお客さんがいるわけでもなさそうなので入ることに。
ちなみに前回の訪問は二日前の7/5に2名だけ。
今日は7/7で、僕と8ヶ月の娘の2名を記入。

雲魚亭@牛久沼

中には、芋銭という画家の使った硯やら画家同士のやりとりをした封筒が、いかにも博物館風に飾ってあった。もちろん、撮影禁止。

個人的には、そういう展示品よりも、気になったのは、懐かしいガラス戸。
昔のガラスって、ゆがんでいて、歩きながらそとの景色みると、少しゆらゆら揺れたように見えるけど、まさにあれ。
いつだったかな、父の実家で見た?記憶がある。
妙に懐かしかった。
あと、電源のスイッチ。大昔の電源スイッチ。そこに書いてあったメーカ「NATIONAL」の刻印。
そしてブレーカ。古ーい漏電ブレーカー。札に書いてあったのは「東京電力株式会社」。
雲魚亭は昭和12年に建てられたらしいけど、ナショナルも東電も80年も昔の日常生活にあったんだと、改めて歴史の長さを感じた。
80年と言えば、もうその頃の経営者や従業員はほとんど他界していて、完全に別の人間の組織体なのに、80年後もその名前がしっかり残っている。
会社を経営する立場としては、いろいろな経営方針があるのだけれど、やっぱり多くの人の日常に根付いて、それが80年後も何かしらの痕跡で確認できるような、そういう事をやれたら幸せだと思う。

で、雲魚亭のほうは2,3部屋しかない小さな家なので、10分も歩いて見学終わり。
管理人のおばあさんが、8ヶ月の娘を、「かわいいねえ、かわいいねえ」とあやしてくれた。

もうひとつ印象的だったのはそのおばあさんが小川芋銭について語っていたこと。
「当時、田舎の農家なんて貧しかったんですけど、(小川芋銭は)全国を旅して絵をかいて、たまに牛久に帰ってきては、近所の農家に色々と施しをしてくださった。人間的にも、できた人だったんだと思います。」と。
いくらおばあさんと言えども、芋銭が生きていたころとは時代が違うので、実際に芋銭のことは知らないだろう。
けれど、芋銭について話をしていた時のおばあさんの話し方からは、芋銭を敬うような印象を受けた。
そりゃ市の施設の管理人さんなので、芋銭については悪く言うことなんてありえないんだろうけれど、職員としての説明とはちょっと離れた心情を察した。
もしかしたら、おばあさんは、おばあさんの親御さんの世代、つまり芋銭と同じ時代の人々から、芋銭の行いについて教えられていたのかもしれない。

芋銭のことは今朝までまったく知らなかったけど、不思議な縁で、色々と普段では考えないようなことを考えるきっかけになった。

で、帰って、いろいろ調べていると

芋銭の生い立ち

明治28年(1895年)2月に同じ村の農家の黒須巳之助の二女「こう」と結婚しました。
こうは健康で体格もよく農事には一通りの心得があり、芋銭が何の心配もせずに絵の勉強ができるようにと夫の分まで働きながら、5人の子供を立派に育て上げました。
こうの「夫の分まで働くから」という申し出により、父は芋銭の画業を黙認するようになりました。
(中略)
円熟期に入った芋銭は農事・家事のことは妻に任せて長期の旅に出かけるようになりました。

うーん、時代だなぁ。。。

さらに調べると

茨城県牛久市公式 小川芋銭研究センター

芋銭研究センター!?

小川芋銭検定

検定!?

死後80年の2012年。地方自治体に担ぐだけ担がれた芋銭。
研究センターやホームページ、検定まで作られて、どう考えても税金の●使い的な印象を受けるわけではございますが、その縁で知ることにもなったわけで、僕は今日から少し芋銭のことを忘れないようにしたいと思います。。。

「牛久散策 雲魚亭、小川芋銭、ナショナル、東電 」への2件のフィードバック

  1.  「芋銭」で検索している時、偶然に、2012年7月7日の記事を拝読致しました。
     感想を書かせていただきました。
     「地方自治体に担ぐだけ担がれた芋銭」とありましたが、実際は全く反対です。10年ほど前の牛久市に於ける芋銭の扱いは何とも言いようがなく、記念館までの道にしても車のすれ違いにも難儀するほどであり、加えて、記念館までどのように行ったらよいのか、迷いに迷う状態でした。芋銭の評価に関しても、本來評価されるべき水準までには程遠い状況でした。小川芋銭研究センターの設置は、そのような状況をふまえてのことで、芋銭検定も然りです。税金の無駄遣いではなく、必要あっての設置でした。
     センターが設置されて以後、新聞紙上で取り上げられた回数は7年間で80余回を数えました。全国紙上でも扱われ、その存在は徐々に知れ渡り、芋銭に関することや芋銭展を開催する際、センターへ必ず問い合わせがくる程になりました。また、他県から展覧会担当諸氏が訪ねてもきました。加えて、市内はもとより、全国から返答に窮する程、芋銭に関する多種多様な質問が寄せられ、その存在意義は徐々に認められてゆきました。
     それでも税金の無駄遣いと言えるでしょうか。
     それまで、牛久と芋銭といえば「カッパ」に関する内容の時に取り上げられる程度で、役所自体、芋銭に取り組む人など皆無といっても大過ない状態でした。センターの研究顕彰の甲斐あって、芋銭を取り巻く環境は見違えるようになり、記念館内部も整備・整理が進みました。もし整備以前に行かれたなら、仰天は必至です。
     それに何と言っても最大の問題は、芋銭芸術は深い教養に支えられているため、一般には、表面だけしか見えないということです。これに風穴を開けたのが、センター編集の『小川芋銭全作品集』です。牛久市の中央図書館には、同著書が所蔵されていますので、『芋銭子文翰全集』上下(中央公論社 昭和14〜15年)と併せてお読み下さい。それらを御覧になれば芋銭芸術に驚嘆し、考えを改めざるを得ないことに気付くでしょう。芋銭芸術は、老荘を始めとする漢籍・和書・禪籍・佛典等々、枚挙に暇がないほどの文献を背景として成っています。高名な芋銭研究家でさえ、手がかりを得るのは容易ではなく、具体例を以て示されることは殆どありません。
     ちなみに、芋銭文庫なるものが小川家に残されていますが、難解な書籍が沢山存在します。作品を観て、背景に何があるかに気付くか気付かないかは、観る側の教養次第です。教養が低ければ、芋銭芸術は、アハハ「カッパの芋銭か」でお終いです。
     話は変わりますが、現在ブログなるものがネット上に溢れており、中には芋銭に関するものも存在します。表現の自由は誰にも許されるものの、名を明かさないことを盾に、浅学で自説を最高とする独りよがりなものや、特定の人物を標的とするものまで存在します。これらによって、芋銭の人と芸術の本質までもねじ曲げられています。このような害毒の垂れ流しには、ただただ嘆息するのみです。コメントを送っても、ブログ等の主にとって不都合なものは無視されるから、コメントは意味を成さない。
     時は過ぎ、小川芋銭研究センターは、市の体制が替わると共に不要の存在として、早々に閉鎖されました。貴台が言われるよう、税金の無駄遣いだったのかも知れませんね。
     これによって、芋銭顕彰研究は50年いやそれ以上前の凡庸とした時代に戻りました。

  2. まず、ブログ記事をお読みいただき、またコメントを頂きましたことに、深く感謝申し上げます。また税金の無駄遣いの印象を受けたとの表記についてご気分を害されましたことを心よりお詫び申し上げます。

    あなた様は小川芋銭を愛していらっしゃるのだとお見受けします。小川芋銭がより多くの人に理解され、そして多くの人と小川芋銭を通じた理解を分かち合いたい、というお気持ちも持たれているようにも感じます。またさらに、このブログや、インターネットに溢れかえる情報を、変わりゆく時代の中で失われていく数々に重ねられているようにもお見受けします。
    それでも貴殿がこちらの記事に投稿されたコメントは残ります。(私はコメントを消したりしませんのでご安心ください。)もしインターネットやブログがない時代であれば、私は小川芋銭研究センターと小川芋銭検定を見て「税金の無駄遣いだな」と感じたところで、それで御終いだったでしょう。しかし、このようなご指摘を頂戴する機会に恵まれました。改めて、インターネットの素晴らしさに感動している次第です。

    私たちは、決して間違った方向には進んでいません。常に私たちの未来は希望に満ち溢れてます。あなた様の愛される小川芋銭も、あなた様自身の想いも、この私の想いも、ここに記された瞬間から、インターネットの情報の海の中で未来に渡って永遠に生き続けます。100年後、500年後の子供たちが何かのきっかけにこの投稿を見ることでしょう。そして小川芋銭を知ろうとする子供たちも出てくるでしょう。私の何気ない日常も、あなた様のコメントも、この記事とコメントを読む人が感じる思いですら、すべては永遠の未来にわたって続く、ひとつの物語です。

    小川芋銭研究センターは閉鎖されたとのことですが、それはあなた様のおっしゃる通り、物理的な施設を設けて運営の人件費を捻出するにあたって必要な納税者の理解を得にくくなった時代のせいでしょう。しかし、小川芋銭研究センターの存続が目的ではないはずです。大切なのは、小川芋銭が語り継がれ、アハハと笑う人も深く傾倒し敬う人も総じて豊かになることかと思われます。そのためにもぜひ、嘆息のみならずインターネットを活用いただき、そして未来の子供たちのために引き続き小川芋銭に関してご尽力されることをご期待申し上げます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.