先週、娘と嫁を連れて実家に帰ってきた。
もはや実家に帰っててもヨチヨチ歩き出した娘が話題の中心となるし、嫁も何回も実家に来ているのですっかり家族感が出てきた。
そんな中、うちの母が、僕が高校まで使っていた部屋(いまも一応部屋だけはある)を、ステンドグラスづくりのアトリエにするとか言い出した。
ずいぶんと高尚な老後の趣味だことで大変結構なことなんだけど、それよりも、自分の部屋の整頓なんて突然言われても18歳?か19歳?から12年も時が止まった部屋をひっくり返すのがなかなか大変だった。
ファミコンのソフトはとりあえずプレミアがついていてちょっとしたお小遣いになるので売ることに。ゲーム機のハードは骨董品にしかならないので破棄。
大学の時に音楽の趣味でターンテーブルやらミキサーやらを買い込んだものがそのままホコリを被っていた。残念だけど次に音楽に講じる予定はまったく見えないのでハードオフ行きとした。
あとはVHSのビデオテープがいろいろあって、「大晦日だよドラえもん」を小学校のときからずっと撮りためたやつとか、ジブリだとか、高校のバンドのライブをビデオ撮影したようなものまであった。当時はドラえもんのビデオをレンタルするにもお金がかかるのでビデオテープが擦り切れるほど見ていたんだけれど、20年の時を経て僕は遂に大人になり、ドラえもんのDVDなぞ一瞬で買える財力を身につけることに成功した。小学生の俺よ、その心は受け取った。よってビデオテープはすべて処分。
次に出てきたのは、当時のパソコンに関連する本。はじめての9801だとか、MS-DOSプログラミングの本だとか、8086アセンブラだとか、到底小中学生が読む本じゃない本がたくさん。この変態的趣味のおかげで、僕はいま何とかメシを食っていけていると思うと、本当に子どもの頃の俺には頭が下がる。プログラムがどうしても上手く動かず、教えてくれる人なんているわけなくて、インターネットなんてない時代だから検索とかいう便利なものもなく、ただ泣きながら本の隅々をくまなく読んでたのでございます。今の僕は、その頃に相当する努力をしているかと言われれば、ちょっと自信がない気もする・・??いや、今もけっこう頑張ってるか。 …とか思いながら、現在では価値ゼロの本だらけなので、オール処分の判決。
そしてそして、最後に現れたのが、ゲームで言えば「禁断の箱」的な立ち位置の箱。中学とか高校のときの、色々な人と交わした手紙とか写真とかの類で、その当時苦しみ悩みぬいた人間ドラマが詰まっている箱。僕の人格形成の生々しい現場がそこには書かれていて、あまりにも悩んでいたため、時が経って客観的に冷めて読めるようになるまでしまっておこうと思っていたもの。けど、大学生になったぐらいで読み返しても全然ダメで、就職してからも振り返っても生々しいままで、12,3年が経って30歳になったこのタイミングでちらっと読んでも、やっぱり生々しかった。。。ぜんぜん客観的になれない不思議。若干、娘が出来て父親の立場になったことで、少しだけ違う視点で見れるようになったかもしれないけれど、それでも読み返すと高校生の時のどうしようもない感情になってくるから不思議。いつまでたっても高校のときの自分が居るらしい。すごいね。というわけで、これは捨てるわけには行かず、でも物理的な紙が寿命を迎えてボロボロで(授業宙に配られたわら半紙の裏とかに書かれていたりするw)、ぜんぶScanSnapでPDF化することに。ぜんぶスキャンしたら100ファイル近くあった。なんか、すごいよねIT社会。たぶん100年前なら物の寿命と共に思い出も消えることになっていたのに、IT化されたおかげで永遠に忘れられないっていう。恩恵なんだか功罪なんだか意味わからん。。。 そして物理的な思い出箱は長い時を経てシュレッダーとゴミ箱行き。
そんな感じで、すっかりタイムスリップしてた。
こうやって色々と振り返っていくと、子供の時からの延長に今の自分が確かにいるんだな~という気持ちになる。
そして同時に、もうノビノビと生きていこうという前向きな気持ちにもなる。
会社をやっていると、どうしても短期的で目の前の小さな事象に対して注力しがちになるんだけど、一個人として僕が縛られているのは30年越しの自分自身なわけで、そこらへんは見失わないようにしたい。
ポイントは、自分が持っている欲という欲はトコトン追及しまくって手に入れて、そして飽きて、何にも欲がわかなくなって、ただ穏やかにお茶をのんでツルツルの状態になりたい。
あとどのぐらいで到達できるんだろうな~。