新作「君たちはどう生きるか」の公開を前に、予習的な意味で宮崎監督の10年前の作品「風立ちぬ」を久しぶりに見た。
とにかく”美しい”と”気持ち悪い”のギリギリ境界線。生死、特に性の描写。文学としては、高畑勲的だったり村上春樹的な意味で、たいへん質が高いのだとは思うけれど、僕は正直そういうのが得意な人間じゃないので良さはわからない。圧倒的な表現力と知識で描かれた芸術作品であって、大衆に向けたエンタメ作品じゃないことはよくわかる。絵の派手さもそれまでのジブリ作品に比べてたらブレーキを効かせまくっているし、サウンドもモノラルかつ人の声というめちゃくちゃミニマルな構成になっていて、それまでのジブリファンは置いて行かれる作品。レビューが賛否両論なのも、文学かエンタメか、どちらの映像作品として見るかによって、まったく評価が異なるからだと思う。もちろん、僕とかほとんどの人がジブリに求めてるのは分かりやすい大衆エンタメ要素であって、ナウシカ的だったりOn your mark的であったり、セカイ系だったりSFだったりする。
そうやって風立ちぬを久しぶりに見終わったうえでの、今作の「君たちはどう生きるか」について考えたのだけど、やっぱり僕は、宮崎監督には、まことに勝手ながらも、最後の最後にエンタメの神として伝説的に終わって欲しいと思った。もちろん腐るほどエンタメを描いて描いて死ぬほど苦労された人生だろうから、もう二度と描きたくないはずなのは承知の上で。
もし「君たちはどう生きるか」が運よく大衆エンタメに寄せたものだとしても、たぶん、エンタメ表現が極まりまくっている傍らで、脚本には隠し切れない文学的なものが交じり合い、そのちぐはぐでハレツするんじゃないかと思う。というかむしろ、そのハレツを見るところが今作の味わい方なんじゃないかとさえ思う。人生の最後の作品という立場にあってそうなることは、決して誰にも叩けるようなものではないし、誰もが老人になるのだから、異物として忌避するべきでもない。俺だってじじいになったら最後はハレツする自信があるし、みんなだって人生の最後はハレツするんだから。
ネットでも、みんなナウシカ2だったらいいなとか言ってるけど、もうナウシカ原作は、庵野さんも含めて、誰も触らずにそのままにしておいてあげたほうがいいと思う。それだけ、久しぶりに風立ちぬを見たインパクトは大きかった。
やっぱり新作は看取りに行く覚悟でよさそう。本田氏作監で久石譲氏ということで、7/14初日にCS土浦のIMAXを予約した。
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風立ちぬで一番好きなシーンは、シベリアのシーン。宮崎監督の強烈な自虐・自白。自分がアニメ作品でやってること。ひたすらに情を捨て美しいものを追う中で、気まぐれに情をかけている自分。風立ちぬの中で一番エグいシーンだと思う。その後に響く本庄の「それは偽善だ」の力強い声、続いてひとごとのような庵野監督の声での「どうしてこの国は貧しいんだろう」。わかりやすい”できた人間”たる本庄と、圧倒的才能と美の追求で動くモンスター的主人公の対比。本庄は主人公に対して才能で一歩及ばないことを認めている。思えば、本庄って高畑勲監督なのかな? あのシーンみてると「おいおいそんなに自傷するなよ、お前も人間だよ、紅の豚じゃねーよ」と言いたくなる。
同時に、そんなに自己愛を見せた後にもかかわらず最後にもうひとつ作るというなら、自意識・自己愛・自分語りの対極として、みんなに娯楽作品を作って死んでくれと切に願う。たとえハレツしていようが関係ない、僕は、それがいちばんカッコイイと思うから。