名と実

これまで、名を捨てて実を取ってきた。4年目にして、なんとか目途が立ちつつある。あと1,2年すれば自分の事業単体で食えるようになる。それが、うっすらと見えてきた時、次の5年のプランを考えたくなった。
というのも、このままの成長率で行けるところに目途がついた途端、あとはその成長率を追うだけの作業になるわけで、急に退屈になった気分になる。いや実際は目標に達しないからやるべきことが山積しているのに。それでも見通しが立ってしまうということは恐ろしい。自分はどこかで飽きてきているんだと感じた。
そして、もし仮に、自分の事業で食えることがある程度保証された時、つまり自分が他の事に時間を使えるようになったとき、自分はなにをしたいんだろう、と考えてる。

なんとなく、僕は自分自身が毛嫌いしてきた「虚業」について真剣に向き合いたくなった。
それはゼロサムゲームだ。
実際、ゼロサムで食っている奴らは多い。
僕は本来ウソが嫌いだ。ウソが大嫌いだ。
でも、だからこそ、嘘に向き合わないと、それを僕は本当に嫌うべきなのかどうか、永遠に知らないで死ぬ気がした。
虚業の楽しさはどこにあるんだろうか。
虚業で食ってる人間たちはどこに快楽と納得を見出して、虚業をやってるんだろうか。
不思議で仕方ない。
それならば、虚業の集団に乗り込んでみようじゃないか。
場合によっては一度虚業を演じてやってみてもいい。
たぶん、くだらなくて、やってられなくて、こんな事で稼ぐ意味はない!と憤慨するような気がしなくもない。
でもそれはあくまで実体験をしたわけじゃないから、仮説のまま。
うんざりすることを前提で、少しのぞいてみても面白いかもしれない。
そこからどんな景色が見えるんだろう。

坂の上の雲

最近、NHKオンデマンドで坂の上の雲を見てる。
子供たちが寝静まってから、起さないようにヘッドフォンを付けて毎晩1話ずつ。

ドラマだと割り切ってみているけれど、やっぱり明治の時代背景に興味が出る。作中では明治はオプティミズムだと言っている。そしてフロンティアがあることが幸運であったような事を言う。ぜひ死んだ明治のエリートたちに聞いてみたいところだ。

今の時代は目に見えるフロンティアを失って久しい。明治の20代の庶民は貧困に喘ぐ日常の中に突如降ってきた国家というものに熱中した。一方で、自分の20代を振り返れば、末端のサラリーマンとしての仕事と、携帯電話とネットで半ば強制的につなげられたコミュニケーション手段のコントラストに翻弄されていた。いつの時代も若者は熱中できるものを求めている。ただ、今は分かりやすい物がないから、周辺の人間関係にエネルギーが費やされている。一見、国家だとか主義だとか、そういうものについては一番遠い時代にいるように見える。でも僕は、今もし分かりやすい敵が現れたとしたら、一気に火が付くのではないかと思う。しかもそれは、坂の上の雲のような、明治のオプティミズムとはかけ離れた、何か途方もない黒いエネルギーを原動力としたうねりになるような気がしている。

なにも変わらない日常の中で溜まったエネルギーが、行く先を失っている。
それは国家が大衆化する前の、民衆の心理そのものではないか。