学校に思うこと

学校と教育の仕組みが歪みを蓄積している。先生が疲弊して、親が疲弊して、子供が疲弊してる。大昔に設計された教育の制度・価値観と時代のギャップが蓄積されつづけ、滑稽としか思えないような状況に出くわすことも珍しくない。

この状況は政治力をもった誰かが号令をかけて大きく改革を掲げるでもない限り変わらないだろうし、そして現実的にはそれは望めないだろう。なぜなら、その制度によって生計を立てている人が多すぎるからで、改革を行えば別の犠牲が出るからだ。そしてそのリスクを負う政治家はいないだろう。つまり、現場当事者全員が犠牲になる状態が出口なく延々と続く。一見平穏に回っている現場も、結局”なんとかまわっている”時に成立しているように見えているだけだ。どこかの部品が欠ければ、加速度的に狂うだろう。コロナはそれを加速・露呈させた。このブログでぐらいしか言えないが、正直言って、子供たちのイノセンス以外に、絶望しかない。

現場の先生がこのことを一番分かっている。同時に、歪みを知りつつ変えられない中で悩みながら身を削って努力されている。だから先生を責めるつもりは一切ない。

すべてはこの国のいろいろ仕組みが寿命を迎えつつある中で起きている機能不全の一部だ。自分の娘2人が、そういった学校・社会に対してこれからどう向き合っていくのか、それに必要な力と、僕が用意してあげられる物や環境や体験はなんなのか、考えない日はない。娘たちが、たまにそういう教育の歪みに遭遇して疲弊する姿を見ると苦しい。

時にはこれまで常識とされていた価値観に反することが必要だと思っている。他人から僕が少し変わった親と見られるぐらいの犠牲で、子供の負担が減るのであれば、安いものだと思う。

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